Wireless・のおと
サイレックスの無線LAN 開発者が語る、無線技術についてや製品開発の秘話、技術者向け情報、新しく興味深い話題、サイレックスが提供するサービスや現状などの話題などを配信していきます。
(家庭内)有線ネットワークのはなし
このブログは「Wireless・のおと」をうたっていますが、時には有線の話も取り上げてみたいと思います。今回のお題は「家庭内有線ネットワーク」です。
IEEE1394
IEEE1394 は通称「Serial SCSI」または「Firewire」の愛称で知られ、映像系に用いる場合は「iLink」とも呼ばれるインターフェースです。PC 向けの汎用次世代インターフェースとして USB とほぼ同時期に登場し主流の座を争いました。
USB は1台の「ホスト」に最大 255 台の「デバイス」が接続される「ツリー型」と呼ばれる構成ですが、IEEE1394 は「バス型」で、1本の 1394 バスに接続される機器(最大 63 台)は全て等しく「ノード」であり、親子関係(イニシエータ・レスポンダ)は通信のたびに動的に決められます。すなわち USB は「パソコン(ホスト)」に「マウスやキーボードや HDD (デバイス)を繋ぐ」ことはできても「パソコン同士」は原則として繋げないのですが、IEEE1394 はパソコン同士の接続にも使える仕様となっています。
この特性を利用して IEEE1394 バスを TCP/IP ネットワークとして利用する「IP1394」が企画されました。1995 年に最大 400Mbps を規定していた 1394 は USB (12Mbps) はもちろん当時普及が始まりつつあった 100BASE イーサネットよりも速く、ケーブル長や接続台数ではイーサネットに劣るものの、家庭用・個人用のネットワークとして有望なアーキテクチャだと考えらえれていました。IP1394 は 1999 年に RFC2734 標準仕様としてリリースされます。
一方「家庭用ネットワーク」として必要な接続距離の延伸は「p1394c」として 2003 年頃から企画が始まりました。当時充分に普及していた 100BASE 用の PHY 回路と CAT5e UTP ケーブルを利用し、100m で 800Mbps を実現しようという企画でした。こちらの方は 2006 年に IEEE 1394c-2006 通称「FireWire S800T」としてリリースされます。
企画当初から大きな期待を集め、Apple, Sony, IBM など錚々たる大企業が名を連ね、intel 社の独自規格である USB に対し IEEE オープンスタンダードとして開発された 1394 でしたが、その結果は芳しくありませんでした。汎用インターフェースとしては完全に USB の後塵を拝し、ホームグラウンドのハードディスク用途では遅れて出てきた SATA に追い抜かれ、ネットワークとしての IP1394 は殆ど使われていません。距離延長版の IEEE1394c に至っては対応製品ほぼ皆無という惨状です。「どうしてこうなった」と言いたくなりますが、地盤を固める前にアレもコレもと欲張って標準規格案を乱発し、そこに有力すぎるメンバーが集まりすぎて「船頭多くして船山に登る」状態になったのかもしれません。
HomePNA
長らく壁から生えた電話線の「ローゼット」が電電公社の官有物扱いで認定業者以外の配線作業が許可されなかった日本と異なり、アメリカでは早くから RJ11 コネクタによる電話の脱着が可能で、一軒の住宅には各部屋に 1~2 個の電話コネクタが敷設されているのが普通でした。この電話コネクタを利用して家庭内ネットワークを実現しようとした企画が 1990 年代中頃に Tut System によって開発された HomePNA(※註)です。最初の HomePNA 1.0 は 1Mbps という低速で、10Mbps に高速化した HomePNA 2.0 が登場しました。後に仕様上最大 128Mbps の HomePNA 3.0 も登場します。
HomePNA 2.0 はいわゆるブロードバンド・インターネットの台頭期と重なったため、アップリンクを家庭内で共有するのに理想的なソリューションと目されました。「○年後には年間数百億円市場」などという指数級数的成長予想グラフをよく目にしたものです。しかし予測されていたような大ブレイクは起こらず、HomePNA は傍流にとどまりました。
これも幾つか理由がありますが、期待されていたアメリカ市場では WiFi に競り負けた感じがあります。2000 年以降はパソコンの主流がデスクトップからノート型へと推移していった時代でもあり、「無線でつなげる」という WiFi の利便性が「確実」という有線 HomePNA の利点を上回ったようです。また有線であっても本来高周波用ではない電話線を使うため高速化が難しく、速度性能でも同時期の WiFi と同程度にとどまったのもマイナス要因でした。
(※註) 正確には「Home Phoneline Networking Alliance」で、Tut 社の開発した技術を中核とした標準制定団体の名前を指しますが、なし崩し的に団体の名前が規格の名前になってしまいました。
HomePlug とその仲間たち
大抵の家庭には一部屋1個以上の AC 電源供給ソケット(日本では「コンセント」、米国では「アウトレット」と呼ばれる)があり、それらは全て何処かで繋がっています。これも一種のネットワークと考えることができ、これを利用すれば家庭内ネットワークが実現できるのではないか、という電力線ネットワーク(PLC:Power Line Communication)の発想は古く 1970 年代に遡ります。特に、スイッチ ON/OFF を制御する程度の「X10」と呼ばれる PLC 規格はアメリカでは一定の成功を収めました。
インターネット共有に適合する高速ネットワークとしての PLC は 1990 年代から本格的な普及の試みが始まりました。例によって例のごとく有象無象の独自規格が乱立しますが、やがて主要3方式に絞られました。米 Intellon や Broadcomm 社の推す HomePlug 方式、日本の Panasonic 社が推す HD-PLC 方式、スペイン DS2 社の UPA 方式です。それぞれに特徴はありますが概ね似たような性能で、規格上最大接続距離 100~300m、規格上最大速度 60~200Mbps 程度がうたわれていました。楽天的な PC 雑誌のライターには「将来全てのパソコンには PLC が搭載され、電源を繋ぐだけで通信できるようになるだろう」などと書く人もいました。
しかし PLC もやはり「そういうのもある」という程度の普及度にとどまっています。落雷や漏電対策などの付加回路が必要なため装置価格を下げにくい理由もありますが、性能が安定しにくいことが最大の問題でしょう。もともと家庭内の電力配線は高周波通信のとなど全く考慮されていないうえ、妨害電波抑制のための高周波フィルターが挿入されている場合もあり、こうなると殆ど通信は絶望的になりますが、見た目では判断できません。買ってきてつないで動けば OK、動かなければ諦めるしかないというのが PLC の実情であり、これが普及を拒む主要因になっているようです。
MoCA
アメリカでは電話の RJ11 ジャックと同様、TV 受信器用の同軸アンテナ端子も各部屋に一つくらい備えられています。これを利用して家庭内ネットワークを実現するために結成された標準化団体が MoCA(Multimedia over Coax Alliance) です。発足は他の方式より若干遅く、2004 年になってからでした。
MoCA は最初から高周波用に敷設されたケーブルを利用するため、10KHz 程度しか考えていない電話線や、60Hz しか考えていない電力線に無理やり高周波信号を流す他の方式より有利です。実際 MoCA 1.0 では 175Mbps、MoCA 2.0 では 800Mbps と非常に高い公称速度を実現しています。
一方、家庭内に設けられる同軸アンテナコネクタの数が少なくて場所も限られ、しかも大抵は TV セットが接続済みであることが MoCA の不利な点です。スプリッターと呼ばれる機器を使ってケーブルを二股に分け TV と MoCA で共有することもできるのですが、世間一般の消費者は TV のアンテナケーブル配線など業者任せで一度敷設されたら自分では弄らないのが普通です。
これらの理由のため、MoCA はどちらかと言うと機材を小売りして消費者自身に設置させるよりも、ケーブル TV 業者がオプションで家庭内ネットワークを設営するときに使われているような気配があり、ホテルでは各フロアに設置したアクセスポイント間を接続するバックボーンとして MoCA が利用されていると聞いたことがあります。逆に言えば、そういう特殊な事情がない限りは使われていないとも言えますが。
ITU-T G.hn
2009 年に発足した ITU-T(国際電気通信連合-通信分科会) G.hn はこれら家庭内有線ネットワーク最後の?希望です。実態としては HomePNA, PLC(HomePlug, UPA, HD-PLC), MoCA の合同規格で、従来バラバラだった暗号方式などを統一し、ゲートウェイを用いて異なるメディアの相互接続も実現するというものです。G.hn には「HomeGrid」のブランド名(※註)が与えられ、HomeGrid Forum によって普及が図られています。
(※註) HomePlug, HomePNA, HomeGrid...よくもまぁ次々に思いつくものですね。そういえばかつて IEEE802.11 と争った無線 LAN 技術には HomeRF という名前もありました。
しかし、果たして G.hn や HomeGrid という名前を聞いたことがある人はどのくらい居るのでしょうか?G.hn は 802.11ac や LTE に対してメディアで取り上げられることが圧倒的に少ないと思います。バカみたいな比較ですが「ITU-T G.hn」のグーグル検索結果 37,000 件に対し「IEEE 802.11ac」だと 1,370,000 件です。
そもそもデスクトップ PC がノート PC に取って代わられ、そのノートもまたタブレットやスマートフォンの脅威に直面している今、「家庭で」「有線」ネットワークを使うという必要性自体が減少しているように思えるのですが。前述のホテルにおける MoCA のように、AP 一基ではカバーしきれない大邸宅のバックボーンとしては需要があるかも知れませんが、広いアメリカでもそんな大邸宅を構えている人は決して多くはなく、まして日本においては何をか言わんやでしょう。
まとめ
家庭内ネットワークは夢の黄金郷(エルドラド)です。そこに辿りつけば国内だけで数千万台、世界市場で数十億台の手つかずの新規市場が拓けるはず。それを目指して多くの勇者たちが冒険に出て斃れ、死屍累々の惨状を呈しているところもまたエルドラドを思わせます。
私は決して無線至上主義者ではありません。配線さえ済んでしまえば、有線のほうが圧倒的に速度・信頼性・秘匿性・エネルギー効率で優れます。これは今までに何度も述べてきた物理学上の帰結で、いくら技術が進んでも無線が有線を上回ることは恐らくできません(ただし、実用上差が無い程度に迫ることは可能かもしれませんが)。
しかし問題は「配線さえ済んでしまえば」がそう簡単ではない場合があることです。いまどきオフィスビルで LAN を備えていないところは少ないでしょうが一般家庭ではそうとも限らず、建築済みの住宅とくに賃貸住宅では部屋間の配線が実質不可能(※註)な場合も多いです。またスマートフォンやタブレットで使うためにはいずれにせよ無線 LAN が必要であり、だったら無線 LAN で良いじゃん、という事になってしまいます。
(※註)もちろん人間が部屋間を移動できる以上、床にケーブルを這わせれば配線は不可能ではありませんが、ドアに挟まったり足を引っかけたりなど日常生活の不便と引き換えです。一人暮らしならともかく、家族持ちでは奥さんが許してくれないでしょう。
技術のトレンドは振り子のように行ったり来たりします。集中型 vs 分散型、専用品 vs 汎用品、ネイティブコード vs 中間言語...有線 vs 無線もまた振り子のなかにあるのかも知れません。今はコンピュータ(ネットワーク)の利用形態が据え置き型からモバイル型へほぼ移行し終え、これからはウェアラブルと言われ無線接続の重要性は増す一方ですが、どこかで価値観の逆転が起こり、ふたたび有線ネットワークが主流接続手段の座に返り咲くことが無いとは言えません。
もし今後に家庭内有線 LAN の復権があるとすれば、無線 LAN では実現困難な超高速 - 10Gbps 以上の帯域を必要とするアプリケーションが普及したときでしょう。それが何なのかはわかりません。8K x 120Hz SHD 動画の再生とかそんな甘いものではなく、例えば全周囲ホログラムによるフル 3D のリアルタイム仮想現実かもしれません。もっともそれを実現するためには家庭内 LAN 以前に既存インターネットの画期的な高速化も必要ですし、個人で購入して家庭に設置できる価格・サイズの「全周囲ホログラム表示装置」が実現しなければなりません。仮にそれが実現したとしても、その時に使われる家庭内有線 LAN はもはや G.hn ではないでしょうが。
IEEE1394 は通称「Serial SCSI」または「Firewire」の愛称で知られ、映像系に用いる場合は「iLink」とも呼ばれるインターフェースです。PC 向けの汎用次世代インターフェースとして USB とほぼ同時期に登場し主流の座を争いました。
USB は1台の「ホスト」に最大 255 台の「デバイス」が接続される「ツリー型」と呼ばれる構成ですが、IEEE1394 は「バス型」で、1本の 1394 バスに接続される機器(最大 63 台)は全て等しく「ノード」であり、親子関係(イニシエータ・レスポンダ)は通信のたびに動的に決められます。すなわち USB は「パソコン(ホスト)」に「マウスやキーボードや HDD (デバイス)を繋ぐ」ことはできても「パソコン同士」は原則として繋げないのですが、IEEE1394 はパソコン同士の接続にも使える仕様となっています。
この特性を利用して IEEE1394 バスを TCP/IP ネットワークとして利用する「IP1394」が企画されました。1995 年に最大 400Mbps を規定していた 1394 は USB (12Mbps) はもちろん当時普及が始まりつつあった 100BASE イーサネットよりも速く、ケーブル長や接続台数ではイーサネットに劣るものの、家庭用・個人用のネットワークとして有望なアーキテクチャだと考えらえれていました。IP1394 は 1999 年に RFC2734 標準仕様としてリリースされます。
一方「家庭用ネットワーク」として必要な接続距離の延伸は「p1394c」として 2003 年頃から企画が始まりました。当時充分に普及していた 100BASE 用の PHY 回路と CAT5e UTP ケーブルを利用し、100m で 800Mbps を実現しようという企画でした。こちらの方は 2006 年に IEEE 1394c-2006 通称「FireWire S800T」としてリリースされます。
企画当初から大きな期待を集め、Apple, Sony, IBM など錚々たる大企業が名を連ね、intel 社の独自規格である USB に対し IEEE オープンスタンダードとして開発された 1394 でしたが、その結果は芳しくありませんでした。汎用インターフェースとしては完全に USB の後塵を拝し、ホームグラウンドのハードディスク用途では遅れて出てきた SATA に追い抜かれ、ネットワークとしての IP1394 は殆ど使われていません。距離延長版の IEEE1394c に至っては対応製品ほぼ皆無という惨状です。「どうしてこうなった」と言いたくなりますが、地盤を固める前にアレもコレもと欲張って標準規格案を乱発し、そこに有力すぎるメンバーが集まりすぎて「船頭多くして船山に登る」状態になったのかもしれません。
HomePNA
長らく壁から生えた電話線の「ローゼット」が電電公社の官有物扱いで認定業者以外の配線作業が許可されなかった日本と異なり、アメリカでは早くから RJ11 コネクタによる電話の脱着が可能で、一軒の住宅には各部屋に 1~2 個の電話コネクタが敷設されているのが普通でした。この電話コネクタを利用して家庭内ネットワークを実現しようとした企画が 1990 年代中頃に Tut System によって開発された HomePNA(※註)です。最初の HomePNA 1.0 は 1Mbps という低速で、10Mbps に高速化した HomePNA 2.0 が登場しました。後に仕様上最大 128Mbps の HomePNA 3.0 も登場します。
HomePNA 2.0 はいわゆるブロードバンド・インターネットの台頭期と重なったため、アップリンクを家庭内で共有するのに理想的なソリューションと目されました。「○年後には年間数百億円市場」などという指数級数的成長予想グラフをよく目にしたものです。しかし予測されていたような大ブレイクは起こらず、HomePNA は傍流にとどまりました。
これも幾つか理由がありますが、期待されていたアメリカ市場では WiFi に競り負けた感じがあります。2000 年以降はパソコンの主流がデスクトップからノート型へと推移していった時代でもあり、「無線でつなげる」という WiFi の利便性が「確実」という有線 HomePNA の利点を上回ったようです。また有線であっても本来高周波用ではない電話線を使うため高速化が難しく、速度性能でも同時期の WiFi と同程度にとどまったのもマイナス要因でした。
(※註) 正確には「Home Phoneline Networking Alliance」で、Tut 社の開発した技術を中核とした標準制定団体の名前を指しますが、なし崩し的に団体の名前が規格の名前になってしまいました。
HomePlug とその仲間たち
大抵の家庭には一部屋1個以上の AC 電源供給ソケット(日本では「コンセント」、米国では「アウトレット」と呼ばれる)があり、それらは全て何処かで繋がっています。これも一種のネットワークと考えることができ、これを利用すれば家庭内ネットワークが実現できるのではないか、という電力線ネットワーク(PLC:Power Line Communication)の発想は古く 1970 年代に遡ります。特に、スイッチ ON/OFF を制御する程度の「X10」と呼ばれる PLC 規格はアメリカでは一定の成功を収めました。
インターネット共有に適合する高速ネットワークとしての PLC は 1990 年代から本格的な普及の試みが始まりました。例によって例のごとく有象無象の独自規格が乱立しますが、やがて主要3方式に絞られました。米 Intellon や Broadcomm 社の推す HomePlug 方式、日本の Panasonic 社が推す HD-PLC 方式、スペイン DS2 社の UPA 方式です。それぞれに特徴はありますが概ね似たような性能で、規格上最大接続距離 100~300m、規格上最大速度 60~200Mbps 程度がうたわれていました。楽天的な PC 雑誌のライターには「将来全てのパソコンには PLC が搭載され、電源を繋ぐだけで通信できるようになるだろう」などと書く人もいました。
しかし PLC もやはり「そういうのもある」という程度の普及度にとどまっています。落雷や漏電対策などの付加回路が必要なため装置価格を下げにくい理由もありますが、性能が安定しにくいことが最大の問題でしょう。もともと家庭内の電力配線は高周波通信のとなど全く考慮されていないうえ、妨害電波抑制のための高周波フィルターが挿入されている場合もあり、こうなると殆ど通信は絶望的になりますが、見た目では判断できません。買ってきてつないで動けば OK、動かなければ諦めるしかないというのが PLC の実情であり、これが普及を拒む主要因になっているようです。
MoCA
アメリカでは電話の RJ11 ジャックと同様、TV 受信器用の同軸アンテナ端子も各部屋に一つくらい備えられています。これを利用して家庭内ネットワークを実現するために結成された標準化団体が MoCA(Multimedia over Coax Alliance) です。発足は他の方式より若干遅く、2004 年になってからでした。
MoCA は最初から高周波用に敷設されたケーブルを利用するため、10KHz 程度しか考えていない電話線や、60Hz しか考えていない電力線に無理やり高周波信号を流す他の方式より有利です。実際 MoCA 1.0 では 175Mbps、MoCA 2.0 では 800Mbps と非常に高い公称速度を実現しています。
一方、家庭内に設けられる同軸アンテナコネクタの数が少なくて場所も限られ、しかも大抵は TV セットが接続済みであることが MoCA の不利な点です。スプリッターと呼ばれる機器を使ってケーブルを二股に分け TV と MoCA で共有することもできるのですが、世間一般の消費者は TV のアンテナケーブル配線など業者任せで一度敷設されたら自分では弄らないのが普通です。
これらの理由のため、MoCA はどちらかと言うと機材を小売りして消費者自身に設置させるよりも、ケーブル TV 業者がオプションで家庭内ネットワークを設営するときに使われているような気配があり、ホテルでは各フロアに設置したアクセスポイント間を接続するバックボーンとして MoCA が利用されていると聞いたことがあります。逆に言えば、そういう特殊な事情がない限りは使われていないとも言えますが。
ITU-T G.hn
2009 年に発足した ITU-T(国際電気通信連合-通信分科会) G.hn はこれら家庭内有線ネットワーク最後の?希望です。実態としては HomePNA, PLC(HomePlug, UPA, HD-PLC), MoCA の合同規格で、従来バラバラだった暗号方式などを統一し、ゲートウェイを用いて異なるメディアの相互接続も実現するというものです。G.hn には「HomeGrid」のブランド名(※註)が与えられ、HomeGrid Forum によって普及が図られています。
(※註) HomePlug, HomePNA, HomeGrid...よくもまぁ次々に思いつくものですね。そういえばかつて IEEE802.11 と争った無線 LAN 技術には HomeRF という名前もありました。
しかし、果たして G.hn や HomeGrid という名前を聞いたことがある人はどのくらい居るのでしょうか?G.hn は 802.11ac や LTE に対してメディアで取り上げられることが圧倒的に少ないと思います。バカみたいな比較ですが「ITU-T G.hn」のグーグル検索結果 37,000 件に対し「IEEE 802.11ac」だと 1,370,000 件です。
そもそもデスクトップ PC がノート PC に取って代わられ、そのノートもまたタブレットやスマートフォンの脅威に直面している今、「家庭で」「有線」ネットワークを使うという必要性自体が減少しているように思えるのですが。前述のホテルにおける MoCA のように、AP 一基ではカバーしきれない大邸宅のバックボーンとしては需要があるかも知れませんが、広いアメリカでもそんな大邸宅を構えている人は決して多くはなく、まして日本においては何をか言わんやでしょう。
まとめ
家庭内ネットワークは夢の黄金郷(エルドラド)です。そこに辿りつけば国内だけで数千万台、世界市場で数十億台の手つかずの新規市場が拓けるはず。それを目指して多くの勇者たちが冒険に出て斃れ、死屍累々の惨状を呈しているところもまたエルドラドを思わせます。
私は決して無線至上主義者ではありません。配線さえ済んでしまえば、有線のほうが圧倒的に速度・信頼性・秘匿性・エネルギー効率で優れます。これは今までに何度も述べてきた物理学上の帰結で、いくら技術が進んでも無線が有線を上回ることは恐らくできません(ただし、実用上差が無い程度に迫ることは可能かもしれませんが)。
しかし問題は「配線さえ済んでしまえば」がそう簡単ではない場合があることです。いまどきオフィスビルで LAN を備えていないところは少ないでしょうが一般家庭ではそうとも限らず、建築済みの住宅とくに賃貸住宅では部屋間の配線が実質不可能(※註)な場合も多いです。またスマートフォンやタブレットで使うためにはいずれにせよ無線 LAN が必要であり、だったら無線 LAN で良いじゃん、という事になってしまいます。
(※註)もちろん人間が部屋間を移動できる以上、床にケーブルを這わせれば配線は不可能ではありませんが、ドアに挟まったり足を引っかけたりなど日常生活の不便と引き換えです。一人暮らしならともかく、家族持ちでは奥さんが許してくれないでしょう。
技術のトレンドは振り子のように行ったり来たりします。集中型 vs 分散型、専用品 vs 汎用品、ネイティブコード vs 中間言語...有線 vs 無線もまた振り子のなかにあるのかも知れません。今はコンピュータ(ネットワーク)の利用形態が据え置き型からモバイル型へほぼ移行し終え、これからはウェアラブルと言われ無線接続の重要性は増す一方ですが、どこかで価値観の逆転が起こり、ふたたび有線ネットワークが主流接続手段の座に返り咲くことが無いとは言えません。
もし今後に家庭内有線 LAN の復権があるとすれば、無線 LAN では実現困難な超高速 - 10Gbps 以上の帯域を必要とするアプリケーションが普及したときでしょう。それが何なのかはわかりません。8K x 120Hz SHD 動画の再生とかそんな甘いものではなく、例えば全周囲ホログラムによるフル 3D のリアルタイム仮想現実かもしれません。もっともそれを実現するためには家庭内 LAN 以前に既存インターネットの画期的な高速化も必要ですし、個人で購入して家庭に設置できる価格・サイズの「全周囲ホログラム表示装置」が実現しなければなりません。仮にそれが実現したとしても、その時に使われる家庭内有線 LAN はもはや G.hn ではないでしょうが。