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無線LANが目指すもの:3年後

2014年1月27日 09:30
YS
このブログを始めてから3年が経ちました。その初期に「無線LANが目指すもの」というタイトルで、「より速く」「より安く」「より遠く」「より安全に」をテーマに無線LANの現状と過去、未来を語りました。それから3年が経った今、もう一度これらのテーマを振り返ってみます。

1. より速く
2012 年頃からスループット 1Gbit/sec 以上をうたう IEEE802.11ac 規格に基づいた製品がリリースされ、見るみるうちに品種も多く・価格も安くなりました。予想したとおり、既存技術(5GHz)の延長線上にある 11ac 対応製品の製品化は早かったものの、異種のノウハウを必要とする 60GHz を用いる 11ad 対応製品は出遅れているようです。

「1Gbps WiFi」の実現を受け、気の早いネット記事などでは「1Gbps の次は 10Gbps だ」とうたい、実験的なシステムの成果を「ブルーレイ DVD(25GByte) が 30 秒で転送できる」などと挙げてさも実用化間近なように書いているところもありますが、閉じた実験室内で達成された成果がすぐに実用システムに適用できるわけではありません。有線 LAN が 1Gbps から 10Gbps になったのだから、同じ技術を無線 LAN に反映すれば...という訳にはゆかないのです。
物理法則としてシャノン限界が存在する以上、情報伝送速度を上げるためには占有周波数帯域を広げるか S/N 比(≒送信出力)を上げる必要があり、そして伝送媒体に電波を用いる無線通信では、占有周波数帯域と送信出力の両方を法律で抑えられています。物理的限界内なら何でもできる有線通信と、法律でガンジガラメな無線技術の性能向上阻害要因は根本的に異なるのです。
既存の法制範囲内で情報密度を上げるアプローチも、11ac で採用された 256QAM が実用上限だと思います。32x32 コンステレーションの 1024QAM なんて実用にならないでしょうし、仮に実装してもシンボルあたり情報量が log2(256)=8bit から log2(1024)=10bit に上がるだけ、すなわち 25% の向上にしかなりません。

端的に言って、私は「より速く」という方向性は 802.11ac で打ち止めではないかと思っています。60GHz を使う 802.11ad には高速化の可能性がありますが、それでも 10Gbps は非常に高いハードルです。また 60GHz 独特の通信距離の短さやピーキーな指向性という不便を上回るほどの魅力があるかについても、やはり懐疑的に思っています。過去に UWB が手痛い教訓を残したように、見通し 5m 程度なら有線で繋いだほうが遥かに安く、簡単・確実に高速通信が実現できるのですから。


2. より安く
まだ結論を出すには早いのですが、少なくとも期待していた Bluetooth LE の大規模ブレイクは 2013 年中には起きませんでした。TV やエアコンのリモコンはいまだに赤外線ですし、体重計や腕時計やキーホルダーに Bluetooth LE が仕込まれ、スマートフォンから全てを管理できる「スマートアクセサリ」の夢に現状は遠く及びません。そういう製品も「出ていないことはない」という程度です。
ANT や Zigbee (IEEE802.15.4) など他の超低価格・超低消費電力無線の状況も似たりよったりで、ANT はいまだにスポーツ・ヘルスケア製品、IEEE802.15.4 は相変わらずプロプライタリ工業用途が多く、Zigbee は「本命」のホームオートメーション用途すらまだ伸び悩んでいます。
Ultra Low Power をうたう WiFi 製品はチップとしてはほぼ出揃った感じですが、IoT, IoE という言葉ばかりが先行した売り手市場の様相があり、それが本当に世の中に必要とされているのか?それによって人の暮らしは便利に・豊かになるのか?というところは曖昧な状態が続いていると感じています。
「コンピュータ=インターネット端末」という概念が一般化し、「コンピュータ=パソコン」という地位が揺らぎはじめてスマートフォン・スマートパッドがパソコンを脅かしていますが、結局は「ちいさくて安いパソコン」...WEB を見たりビデオを再生する機械というあたりで止まっており、本当に画期的な「コンピュータ(情報、ネットワーク)と人との関わりかた」は提示できていないように私には思えます。Android 機器では低価格化競争、あるいは液晶の高解像度だとか GPU の高集積化などのスペック競争が始まっており、これは早くもネタ切れになっているのではないか(かつてのデジカメのメガピクセル競争のように)と感じます。

低価格・低消費電力の無線技術が普及し、家電や日用品とスマートフォン・パッドが連携することで何か新しいことが起きるのではないかと予想(期待)していたのですが、どうも動きが鈍いなぁ、というのが偽らざる感想です。



3. より遠く
携帯ネットワークの世界では混迷していた 4G 論争が LTE でほぼ決着し、各キャリアとも LTE 網の拡充に血道を上げて「より速く、より遠く」を目指しているようです。4G 本命かもと騒がれた WiMaxや XGP は静かに消えてゆきました。一部では早くも 5G という言葉が聞こえていますが、設置運用フェーズに入るのは 10 年くらい先の話ではないでしょうか。
課金キャリアとは別のアプローチで「より遠く」を実現するかも知れなかった「Super WiFi」はいまだにくすぶっています。IEEE802.11af (ホワイトスペース WiFi) と IEEE802.11ah (1GHz 未満, 現実的には 900MHz 帯) という規格制定はゆっくりペースで進んでいますが、果たしていつ対応製品が出てくるのかよくわかりません。これら「サブギガ WiFi」は必然的に帯域が狭く、マイクロ波帯の WiFi に比べるとかなりの低速通信(基底レート 150Kbps 程度)になります。
802.11ah ドラフトでは 256QAM 変調モード、最大 16 チャネルの周波数ボンディング、最大 4x4 の MIMO もサポートして高速化(公称最大 40Mbps)に備えるとなっていますが、浸透性の高いサブギガ帯でそんな真似をすると干渉で性能ガタオチになりそうです。LTE の場合は回線キャリアが責任を持って基地局のセル分割設置を行うことになりますが、誰もが無免許で自由に使える(はず)の 802.11 では 2.4GHz WiFi の二の舞になりはしないでしょうか。あるいは何か画期的な干渉回避技術が検討されているのかもしれませんが、私の知る限りでは伝わっていません。

一時期(といっても 2000 年頃)はメッシュによる通信距離延伸の話題が盛んに取り上げられていました。通信距離も結局は「無免許制小電力無線システムの出力上限」という法律で頭を押さえられているのですが、伝言ゲーム式に情報伝達するメッシュはこの制限内で飛躍的に通信距離を延ばせる可能性があると考えられており、地球を覆う「第二のインターネット」になる、という無邪気な見解までありました。
ただしメッシュには「中継ノード数が増えるほど伝達オーバーヘッドが級数的に増大し、オーバーヘッド自体が有効帯域を食い潰して自滅してしまう」という大きな問題があります。これは伝達アルゴリズムの工夫で回避できる(かも知れない)と考えられ、AODV だとか OSPF、集中型に分散型に同期型に非同期型、それらを混ぜたハイブリッド型、自然界にモデルを取ったフラクタル型だの乱数型だの多彩なアイデアが提案されました。しかしそれから十数年が経ち、実用システムとして生き残っているのはごく僅かです。メッシュは帯域、遅延、距離、確実性、ノード数と可動性など条件を限定できれば適切なアルゴリズムを選定し実装できるのですが、不確定条件下で適当に寄り集まったノードが自主的に情報を交換し自律的に条件をバランスさせて動く「夢のメッシュアルゴリズム」はいまだ見出されていません。メッシュ研究はむしろ下火になりつつあり、メッシュの夢は結局夢であり続けるのではないか、と私は思っています。

結局、長距離で通信したい場合は大人しくキャリアに契約料を払って LTE 回線を使うという、技術的には面白くも何ともない話が現実解になりそうです。LTE 網の発達と WiFi が競合するのではないかという懸念もありますが、今のところキャリアにとって LTE 基地局の負担分散が大きな課題であり、キャリア自らが一生懸命 WiFi ホットスポットを立てて回っている(※註)状態なので、当面は競合ではなく共存することになりそうです。

(※註) キャリアにとって重要なのは加入者が月額料金を払ってくれることであり、LTE の帯域を使って貰うことではありません。契約料さえ払って貰えれば顧客がどの回線(LTE, WiFi, CATV, etc)で通信しようが関係なく、むしろ貴重な LTE 帯域をガンガン使いまくるヘビーユーザーは「遅い」「つながらない」という苦情の元凶となる悩みの種で、なるべく WiFi に「追い出したい」というのが本音でしょう。


4. より安全に
WiFi のセキュリティ規格はとりあえず WPA2-AES(CCMP) で落ち着いているようで、致命的なセキュリティホールが見つかったという話も聞きません。エンタープライズセキュリティの EAP は相変わらず混迷していますが、実質的には EAP-TLS と EAP-PEAP(PEAPv0+MSCHAPv2) の2つがデファクトスタンダードと言って構わない状況でしょう。
EAP セキュリティで用いる証明書は 1024bit RSA 暗号はそろそろ危険と言われ、通常用途には 2048bit、高セキュリティを要求されるなら 4096bit が推奨されています。その上に 8192bit もありますが、演算量が飛躍的に増大することもあってまだ広くは使われていません。8192bit を超えるとそろそろ RSA では能力不足になり楕円暗号(EC)の出番と言われていますが、まだ先のことになりそうです。

従来は暗号・認証の対象外だった制御フレームをセキュリティ化する IEEE802.11w 規格が制定され、これに対応した WiFi チップ・ドライバも出てきていますが、本当にそこまでする必要があるかなと思います(特に個人用途では?)。11w は WiFi 認証の必須項目に取り込まれるようですが、また盲腸...規格上存在するだけ、実装されているだけで実際には使われない機能...にならなければ良いがなぁ、と思います。



まとめ
3年前のテーマを改めて見直してみましたが、意外に大した進歩が無いものですね。良くいえば無線通信技術がそれだけ成熟したということでもあり、悪くいえばネタ切れになりつつあるということでしょう。
無線通信は手段に過ぎません。顧客はその製品が無線だから買うのではなく、無線によって実現できる価値を買うのです。それは携帯性であったり可動性であったり、配線敷設の手間が要らないことによる総合コストの低減であったりします。これは当たり前のことなのですが、どうも我々メーカーは「もっと速い無線を出したらもっと売れる!」のように顧客置き去りのカタログスペック競争に走りがちです。

製品の性能と価値について、私の好む例に電卓のたとえ話があります。計算時間 10 秒が当たり前の時代に 1 秒の電卓を発売すれば大ベストセラー。1 秒の時代に 0.1 秒の電卓を発売すればヒット商品。 しかし 0.1 秒に対して 0.01 秒の電卓を出しても、違いを評価してくれるのはマニアだけ。0.01 秒の時代に 0.001 秒の電卓を出しても、もはやマニアにすら違いはわかりません。
無線技術にも同じことが言えるでしょう。ちょっと画像の多い WEB を見るのが苦痛だった 802.11b に対して 802.11g では明らかな体感上の向上があり、802.11n では g が苦手とした動画もスムーズに再生できるようになりました。でも 802.11ac や 11ad が提供する価値とは?推進派は「速度が上がれば必ずそれに応じたアプリケーションが出て、ユーザーはそれを求めるようになる」と言いますが、どうも具体像が見えません。「HD 動画の再生」って、そんなに誰もが無線で実現したがるものなのでしょうか。

価値を生み出すことをイノベーションと呼びます。電卓の話に例えれば、0.001 秒電卓を開発することは発明(インベンション)ではあってもイノベーションではありません。しかし計算式を人間が手で打ち込み目で読み取るのではなく、自動計算する装置にすれば?データの山ひとつ処理するのに1時間か 6 分か 3.6 秒かという違いがあれば、たとえ値段が 100 倍でも 100 倍速い計算機を求める人も出てきますよね。これがイノベーションです。「より速く」も「より安く」も「より遠く」も「より安全に」も、既存製品よりも良ければ次世代製品が売れるわけではなく、性能向上によってどんな価値が実現できるか、という視点のほうが肝心だと思います。それが提示できなければ、今までと同じ性能で「より安く」だけが製品の競争指標となり、どれだけ利益率を絞って数で勝負できるかという販売競争、いわゆる「レッドオーシャン(※註)」となってチキンレースを生き延びた数社だけが残る、という構図になることでしょう。

(※註)2005年にベストセラーとなったビジネス啓蒙書「ブルーオーシャン戦略」で使われていた用語。当時大流行したこの言葉も最近はあまり聞かなくなりました(笑)。ちなみにこの言葉も一種の例え話で、環境学的にはむしろ誤用でもあります。多数の生物がひしめき喰いあう沿岸や湖沼の濁った水はプランクトンを育む水中有機物=栄養豊富だからこそそうなるのであって、火口湖や大洋真ん中の透き通った青い水は栄養分をほとんど含まない水の砂漠です。もっとも自然界には砂漠や極冠のように過酷な自然環境へ適応してニッチな生態系を確立する生物もいますし、企業としてそういう限定市場への特殊化を図る戦略もアリだとは思いますが...多角経営とか成長戦略という流行り言葉とは相反すると思うんですよねぇ。まぁ所詮はたとえ話なので、突っ込み入れるのも野暮なんですが。

果たして 802.11ac/ad や Bluetooth LE や 802.15.4a がどんな価値を生み出すのか、あるいは只のインベンションで終わってしまうのか。メーカーとしての本音と建前を交えつつ見守ってゆきたいと思います。

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