Wireless・のおと

802.11adのはなし

ブログ
規格 技術解説 802.11ad

IPv6仕様制定20周年企画から始まってしばらく「無線以外」の話が続きましたが、今回は60GHz WiFiこと802.11adの話です。

IEEE 802.11ad はミリ波帯を使う無線 LAN 規格です。仕様上は 45GHz から上の領域を使うと定義されていますが(IEEE 802.11ad-2012 3.1)、一般的には各国における電波規制の関係上 60GHz 帯(57~66GHz) で運用されます(※註)。
IEEE 802.11 規格では PHY に略称を付けており、元祖 802.11 に対して 802.11b は HR (High Rate)-PHY, 802.11a/g は HT (High Throughput)-PHY、802.11n は VHT (Very High Throughput)-PHY と呼ばれてきました。ミリ波の PHY は 802.11ad 仕様書で DMG (Directional Multi Gigabit)-PHY と呼ばれていますが、HR だとか VHT の用語が殆ど一般に知られなかったように「DMG」も仕様書上だけの用語で、一般には「802.11ad」あるいは「WiGig」の呼称のほうがよく知られています。

※註:この帯域は大気中の酸素分子共鳴によって電磁波が減衰しやすいため長距離通信では使い物にならず、それゆえに「好きに使っていいよ」と開放されている事情があります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Extremely_high_frequency

WiGig と Wi-Fi と 802.11ad の関係

60GHz 帯の無線 LAN 企画はもともと「WiGig」と呼ばれていました。これは 2009 年に発足した Wireless Gigabit Alliance (WGA) によって着手された規格で、2010 年には WGA のドラフト仕様が IEEE 802.11 委員会でミリ波帯の適合仕様を検討していた ad 分科会(Task Group ad) に提出され、これをベースとして IEEE 802.11ad 標準仕様が制定された経緯があります。つまり WiGig と 802.11ad は事実上同じ規格ですが、しかし 2.4GHz / 5GHz を扱う Wi-Fi Alliance(WFA) と 60GHz を扱う WGA が同じ IEEE 802.11 枠組みのなかで別々に活動していた格好で、何でこんな事になったのか現場に居合わせなかった私には事情がよくわかりません。ともかく 2013 年に WGA は WFA に吸収されるかたちで統合され、「60GHz Wi-Fi」に似て非なる規格が並立して罵り合うという UWB の悪夢の再現は避けられました。
WiGig はその用途を必ずしも「60GHz Wi-Fi」には限定しておらず、HDMI や DisplayPort などビデオ信号の無線化や USB や PCIe などバス信号の無線化にも PAL (Protocol Adaptation Layer)で対応するとしていました。この方針は Wi-Fi Alliance との合併後も維持されており、WiGig Display Extension (WDE) や WiGig Serial Extension (WSE) などの PAL 仕様が制定されています。WSE はそのまま「Media Agnostic USB」の名で USB Forum にも採用されていますが、「IEEE 802.11ad」「WiGig」「WSE」「Media Agnostic USB」と、微妙に定義範囲の異なる用語がこれだけ羅列されるといささか混乱気味ですね。

802.11ad のトポロジー

一般的に、2.4GHz や 5GHz の Wi-Fi はアクセスポイント(AP)を中心にしたスター・トポロジーで運用されます。アクセスポイントは一定間隔でビーコンフレームをブロードキャスト送信して自分の存在をステーション(STA)に知らせ、STA は原則として AP とのみ通信、STA-STA の通信も AP を介した中継で行われます。
ミリ波帯の 802.11ad でも基本的に AP-STA モデルが継承されています。ただし電波の指向性が強く通信距離の短いミリ波帯では「建屋の何処かに AP を置き、全員がそれを共用する」という運用は難しいと予想されるため、STA 同士が通信するピア・トゥ・ピアのモードも用意されておりこれを PBSS (Personal Basic Service Set)と呼んでいます(IEEE 802.11ad-2012 4.3.2a)。PBSS においてはどちらか片方が簡易 AP のような格好でネットワーク管制を司り、これを PCP (PBSS Central Point) と呼びます。PBSS はいわゆる Wi-Fi Direct と似ていますが、Wi-Fi Direct があくまで従来の AP/STA の接続プロトコルに基づいているのに対し、PBSS は 802.11ad DMG 専用であり DMG Beacon や DMG Information Request などの拡張フレームを使用して通信することが定義されています。
なお 802.11ad 仕様書には IBSS (いわゆるアドホックモード) も可能という記述がありますが(IEEE 802.11ad-2012 4.3.17)、どこまで本気なんでしょうか。仕様上はアドホックモードでの WPA2 相当セキュリティも制定はされていますが(IEEE 802.11i-2012 8.4.4)、ほとんど使われていないのが現状だと思いますけれど...。

802.11ad の MAC

802.11ad の MAC フレームフォーマットは基本的に従来の Wi-Fi と上位互換です。ただし 11ad 特有の機能を実装するため、従来の予約領域を割いて DMG ビーコン(type=3) と拡張制御フレーム(type=1, subtype=6) を定義しています(IEEE 802.11ad-2012 8.2.4)。
従来の Wi-Fi では単フレームの MSDU が最大 2304 バイト、連鎖フレームの A-MSDU が 3839~7935 バイトとなっていましたが、11ad では最大 MSDU 長が 7920 バイトに拡張されアグリゲーションを使わなくても大きなフレームを送信できるようになりました(IEEE 802.11ad-2012 8.2.3)。連鎖データフレームの A-MPDU に関しては最大 65535(64K) バイトから 262143(256K) バイトにまで拡大されています(IEEE 802.11ad-2012 8.6.1)。
従来の Wi-Fi では、各ステーションは基本的に「自分が送信したい時に送信する」DCF (Distributed Coordination Function) で運用されていました。802.11ad では PCP/AP がもう少し時間制御に介入します。ステーションは「自分の好きな時」送信できるわけではなくビーコンに同期する必要があり、PCP/AP から割り当てられたデータ転送時間(Data Transfer Interval, DTI)の間だけ相互通信を行います。DTI は更に Service Period (SP) と Contention Based Access Period (CBAP) に細分化され、前者は予約された帯域での転送(802.1p/802.11e における Transport-Stream に相当)、後者は Best Effort での機会的通信に割り当てられます(IEEE 802.11ad-2012 Figure 9-43)。DTT-CBAP 内での衝突制御は従来の Wi-Fi 同様、DCF あるいは HCF (Hybrid Coordination Function) で行うと定義されています。PCP/AP が中枢となって通信タイミングを制御する PCF (Point Coordination Function) モードは「non-DMG STA」のみのオプションと定義されており、802.11ad DMG は PCF に対応しないことになっています(IEEE 802.11ad-2012 9.2.1)。

802.11ad のセキュリティ

802.11ad のセキュリティモデルも従来の Wi-Fi の延長線上にあります。すなわち 3-way handshake による鍵交換、PSK ないし EAP ベースの認証という基本構造はそのまま引き継がれています。
11ad では従来の AES-CCMP (Counter with CBC-MAC Protocol) 暗号フォーマットに加えて AES-GCMP (Galois/Counter Mode Protocol) が追加されました(IEEE 802.11ad-2012 11.4.5)。Galois というのは 19 世紀フランスの数学者エヴァリスト・ガロア(Evariste Galois)によって発見されたガロア体(Galois field)と呼ばれる数群を用いていることに由来します。CCMP も GCMP も暗号エンジン本体は同じ AES 128bit ですが鍵の生成と認証子の演算手順が異なり、CCMP 方式では認証値を逐次演算で算出するため並列処理ができないのに対し、GCMP では事前算出したガロア体の参照として記述できるため認証演算が並列処理できることが利点...のようですが、なかなか難解でよくわかりません。
ちなみにガロアは数学的業績もさることながら、その短くも激烈な生涯でも知られています。歴史上に奇人変人の天才は少なくありませんが、「数学者および革命家、決闘による腹膜炎によって死亡、享年 20 歳」のような略歴を持つ人はそういないでしょう。

802.11ad の PHY

802.11ad では 1 チャネルあたり約 2.4GHz 幅を占有(IEEE 802.11ad-2012 21.3.2)、地域によって 2~4 本の非重複チャネルが使用可能です。電波の変調形式すなわち PHY には制御フレーム(DMG control PHY, MCS0)、シングルキャリア(DMG SC PHY, MCS1~12)、OFDM(DMG SC OFDM, MCS13~24)、低消費電力(DMG Low-power SC PHY, MCS25~31) を持ち、このうち control と SC が必須、OFDM と Low-power SC はオプションとなっています(IEEE 802.11ad-2012 21)。誤り訂正演算後のデータレートは以下の通り。

control:27.5Mbps
SC:385~4620MHz
OFDM:693~6756.75Mbps
Low-power SC:626~2503Mbps

古典的 Wi-Fi ではシングルキャリア変調(802.11b CCK)と OFDM(802.11g/n) で 5 倍に達する差がありますが、802.11ad のシングルキャリア変調はだいぶ頑張っていて OFDM との差は 1.5 倍しかありません。OFDM モードのオプションを用意する必要があったのか?と疑問に思わないでもありませんが、将来チャネルボンディングや 256QAM 変調を使って 10Gbps 以上への発展を狙う布石なのかもしれません(11ac がそうだったように)。

さてシングルキャリアモードの変調速度は 1760M シンボル毎秒、変調方式は BPSK/QPSK/16QAM、シンボル 512bit のうちガードインターバル 64bit が挿入されるため(有効データ 448bit)データ効率は約 87.5%、これに各種の冗長符号化が加わります。例えば MCS1 では BPSK(1bit/シンボル):符号化率 1/2:冗長送信 2 回(rep2)で、データレートは 1760M(シンボル/秒)×1(bit/シンボル)÷2(rep)×1/2(符号化率)×0.875(有効データ率)=385Mbps として算出されます。

制御フレームの MCS0 もシングルキャリア変調ですが、アンテナ指向制御(ビームフォーミング)成立前の悪条件下でも通信しなければならない事情があるため、冗長化を徹底した特殊なフォーマットを採用しています。変調速度はシングルキャリアモードと同じ 1760M ですが、実効約 1/2 という短縮(shortened) 3/4 LDPC 符号化とゴレイ符号(Golay code)による 32 倍の分散化(spreading)をかけ、これを BPSK の変形である差分 BPSK (DBPSK) 変調で送信します。データレートは 1760M(シンボル/秒)×1(bit/シンボル)÷32(分散化)×1/2(符号化率)=27.5Mbps として算出されます。

OFDM モードでは変調速度が 4.125M シンボル/秒(FFT 時間 0.194μ秒+ガードインターバル 48.485n 秒)、サブキャリア数 512 本中 336 本をデータ搬送に使用(※註)、サブキャリア毎の変調方式は SQPSK/QPSK/16QAM/64QAM、例によって各種の冗長符号化が加わります。例えば MCS24 なら 64QAM(6bit/シンボル):符号化率 13/16 で、データレートは 4.125M(シンボル/秒)×6(bit/シンボル)×13/16(符号化率)×336(サブキャリア数)=6756.75Mbps として算出されます。

※註:802.11ac の 160MHz モードが 452/468 本のサブキャリアを使っている(IEEE 802.11ac-2013 22.3.6)のと比較すると、チャネル幅 2.4GHz で 336/512 本というのはだいぶ大人しいですね。そのぶんシンボル間隔が短いのです。11ac SGI モードで 3.6 μ秒/シンボルに対して 0.242μ秒/シンボルですから約 15 倍です。160MHz を 15 倍すれば 2.4GHz ですから、どちらも結局はシャノン限界 C=Blog2(1+S/N) という「お釈迦様の掌の上」にあることがわかります。

Low-power SC モードは演算量の大きな LDPC 符号に代えてリードソロモン(RS)符号とブロック(Block)符合を採用したもので、これによって通信時の消費電力を減らす意図があるようです。符号の誤り訂正能力に応じてかガードインターバルは SC モードの 512bit 中 64bit から 120bit に増やされており(有効データ 392bit)、データ効率は約 76.6% になります。例によって計算例を示すと MCS31 では 1760M(シンボル/秒)×2(bit/シンボル)×13/14(符号化率)×0.766(有効データ率)=2503Mbps として算出されます。

なお IEEE 802.11ad-2012 仕様に MIMO モードは定義されていませんが、11ad が普及すれば将来の改訂仕様で追加される可能性は高いと思います。

802.11ad のビームフォーミング

強烈な指向性を持つミリ波では、アンテナ指向性制御による通信対象の追跡はほぼ必須となります。802.11ad ではこれをセクタースイープ(Sector Level Sweep, SLS) とビームフォーミング・トレーニング(BFT)の2段階として実装しています(IEEE 802.11ad-2012 9.35)。SLS では 2~4 方位の準全周指向性アンテナ(quasi-ommnidirectional)として大体の方角を探り、BFT ではその方位内での微調整(refinement)を行います。ビームフォーミングは PCP/AP が主導権を持って行い、基本的にはビーコン送信のたびに再調整が行われます。IEEE 802.11ad-2012 9.33 (Figure 9-43) にはビーコン時間の内訳が示されていますが、BTI (Beacon Transmission Interval) 時間内に SLS 走査を行うことが規定され、A-BFT 時間内には接続配下にあるステーションに対するトレーニングを行うことが推奨(shall)されています。データ通信時間(DTI)内での再トレーニングも可能ですがオプション(may)となっています。

まとめ

以上、IEEE 802.11ad-2012 仕様書でキーとなりそうなポイントを手短に解説してみました。技術的には従来の Wi-Fi の枠組みを可能な限り応用し、冒険を控えた現実的な仕様と評することができるかと思います。
さて、ならば 802.11ad は商業的に成功するでしょうか?未来を占うのはいつでも難しいです。「近距離限定・超高速無線」をうたい期待された UWB (Ultra Wide Band) が無残に失敗する現場を目の当たりにした経験があれば尚更のこと。UWB の場合は IEEE 802.15.3a 標準(※註)をめぐる泥試合を筆頭に複数の失敗要因がありましたが、「近距離ならケーブルでつないだほうが安くて速くて確実」「情報の蓄積配布の形態がクラウド化し、ローカルマシン間のファイル転送というユースケースは過去のパラダイム化しつつある」という UWB が直面した問題は、802.11ad にも同じようにのしかかってくるはずです。

※註:実は 802.15.3 WPAN にも 60GHz 帯の 802.15.3c-2009 規格が制定されています。UWB の失敗が明らかになった 2007 年頃には「こっちが本命か?」と話題になったことがありましたが、その後は WiGig/802.11ad の影に隠れて今ではほとんど忘れられています。

「より大きく、より速く」という量的な改良は大抵どこかで飽和点を迎えます。計算速度 0.1 秒以下の電卓や最高速度 200Km/h 以上の自動車は、必ずしもその性能が利便にはなりません。パーソナルコンピュータは長らくそれを先延ばしにしてきましたが、スマートフォンやスマートパッドが登場して「普段使いならこれで充分じゃん!」と気付かれてしまってからは伸び悩んでいます。802.11ad も「Wi-Fi がもっと速くなりました!」というだけでは訴求力に乏しいでしょう。「5G バイトのファイルが 10 秒で転送できます」とか言っても、そんな巨大ファイルの転送を日常的にやらないのならば利便にはなりません。
あるいは、VR (Virtual Reality) や AR (Augumented Reality) 用の三次元ゴーグルなどの新しいアプリケーション分野で使われることになるのでしょうか?ただ「速くなりました」ではない、新しい価値を提供する真のイノベーションに期待したいところです。

関連リンク

製品のご購入・サービスカスタマイズ・資料請求など
お気軽にお問い合わせください