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IEEE 802.11h のはなし

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規格 技術解説

IEEE 802.11 無線 LAN 規格には様々なワークグループがあります。高速無線 LAN の 802.11n や超高速無線 LAN の 802.11ac ワークグループなどは特に有名ですね。しかし標準規格にはよくある事ですが、中には制定途上で消えていった規格や、制定されたのにほとんど使われていない規格もあります。今回はその中でも「微妙」な規格のひとつ、IEEE 802.11h についてのおはなしです。

IEEE 802.11h とは
IEEE 802.11h は、欧州における 5GHz 帯無線 LAN の共存制御のために定められた規格です。最新版は 2014 年現在 IEEE 802.11h-2003 となっており、IEEE のウェブサイトから無償でダウンロード可能です。仕様書の正式なサブタイトルは

Amendment 5:
Spectrum and Transmit Power Management Extensions in the 5 GHz band in Europe

となっています。周波数帯域と発信出力の制御に関する拡張(Spectrum and Transmit Power Management)と題されていますが、Section 1.2 にはより直接的に「動的周波数選択(DFS:Dynamic Frequency Selection)」と「送信出力制御(TPC:Transmit Power Control)」をもって欧州における 5GHz 帯利用の要求を満たす」と既述されています。言い切ってしまえば「802.11h とは DFS と TPC の規定」であるわけですが、DFS とは何なのか、TPC とは何なのかを語り出すとこれが結構長い話になります。


DFS について
DFS は主に気象観測用として使われている C バンドレーダーへの悪影響を避けるため、無線 LAN 機器にレーダー電波の検出と、検出時の発信停止(および他チャンネルへの移動)を義務付けたものです。日本でも W53, W56 帯チャネルに義務付けられているので、御存知の方も多いかも知れません。IEEE 802.11h-2003 では 11.6 章に DFS 仕様が記されていますが、検出すべきレーダー波形などについては 802.11h には記されておらず、別仕様(ETSI EN 301 893 ※註)で定義されることになっています。
(※註) 先日話題に上げた EN 300 328 の 5GHz 版に相当します。これも v1.6.1 から v1.7.1 に改定されています。

DFS はまず、使用するチャネルにレーダー電波が居ないかどうかを一定期間(60 秒以上)傍受することから始まります。この期間を CAC:Channel Availability Check と呼びます。CAC 期間中にレーダー電波が検出された場合、そのチャネルの使用は(少なくとも一定時間は)諦めなければなりません。仮に CAC をクリアしてチャネル使用を始めても常にレーダー電波の検出は行わなければならず、これを In-Service Monitoring と呼びます。そして CAC であれ In-Service であれ、レーダー電波が検出されればすみやかに(10 秒以内)電波の発信を停止しなければなりません(Channel Move Time)。また、いちどレーダー電波が検出されたチャネルには一定時間(30 分以上)電波を発信してはいけません(Non-Occupancy Period)。EN 301 893 では Section 4.7.2 に DFS の要求事項が、5.3.8 に DFS の試験手順がこと細かに記されています。

百ワット単位の送信電力を持つレーダーに対し、桁違いに低出力(30mW 程度)の無線 LAN 機器が「電波を譲る」ことをナンセンスと批判する声もありますが、気象レーダーは数十キロ先の雨粒からの反射波を拾わなければならないので、送信電力は大きくとも受信電力はきわめて小さい(-100dBm=0.1pW 程度)のです。-100dBm の信号を +20dB のマージンで拾うと仮定し、例によってフリス公式に発信電力 15dBm(31mW)、自由空間伝達(係数 2.0)、受信電力 -120dBm を代入すると 5.6GHz では実に 24Km も飛ぶ計算になります。レーダーを運用している組織が無線 LAN を警戒し DFS の実装を要求してくることを、一概にナンセンスだとか既得権益への固執だとか批判はできないと思います(※註)。
(※註) しかし市井の 5GHz 無線 LAN が本当に気象レーダーに深刻な悪影響を与えるのか、現在の DFS 機構が本当に干渉回避の役に立っているのかについては些か疑問でもあります。


TPC について
小煩いと思うほど細かに定められている DFS に対し、TPC の規定はどこか曖昧です。IEEE 802.11h では Section 11.5 で TPC について既述されていますが、まず TPC の目的は衛星通信との干渉を緩和すること(to reduce interference with satellite services)だと記されています。802.11h TPC には幾つかのオプションがありますが、実装必須(shall)とされているのは

- DFS/TPC が実装されている STA および AP は、送信フレームの Capability Bit に Spectrum Management をセットすること。
- AP および AdHoc モードの STA はビーコンおよび Probe-Response に Country IE および Power Constraint IE を含め、地域毎の最大送信出力値と低減要求値(Mitigation Requirement)を通知すること。
- STA は AP に対する送信フレームに Power Capability IE を含め、送信出力調整可能範囲を通知すること。
- STA および AP の送信出力は 地域によって定められた最大出力規定に従うこと。STA は AP から Mitigation Requirement 値が指示された場合、更にそのぶん送信出力を下げること。
- AP および AdHoc モードの STA はビーコンおよび Probe-Response に TPC Report IE を含め、Link Margin=0, Transmit Power=自身の送信出力を通知すること。

という5点だけです。これら以外にも幾つかの手順が規定されていますが、実装オプション(may)となっています。実質的に送信パワー制御に関わるのは「STA は Power Constrain IE に含められた値に応じて送信出力を低減させる」という部分だけですが、誰が・いつ・どのようにして Power Constraint 値を設定すべきなのかについて IEEE 802.11h 仕様では規定されていません。Section 11.5.2 には「(TPC パワー値を) どの程度の頻度および幅で変更するかについては、ネットワークの安定性を鑑みて決定される必要がある」という、無責任というか丸投げのような記述がなされています(※註)。
(※註) The regulatory and local maximum transmit powers may change in a STA during the life of a BSS. However, network stability should be considered when deciding how often or by how much these maximums are changed.

一方 EN 301 893 Section 4.4.1.2 では TPC の目的を「デバイス多数からの総合送信出力を少なくとも 3dB 低減させる(※註1)」とし、そのために個々のデバイスに「放射電力(EIRP) において指定値から少なくとも 6dB の出力低減機能を持つ(※註2)」ことを要求しています。
(※註1) RLAN device to ensure a mitigation factor of at least 3 dB on the aggregate power from a large number of devices.
(※註2) This requires the RLAN device to have a TPC range from which the lowest value is at least 6 dB below the values for mean e.i.r.p. given in table 1 for devices with TPC.


TPC のテスト条件は Section 5.3.4 に既述されていますが、ここでは TPC 適用・非適用状態それぞれについての放射電力測定方法について述べられているだけであり、DFS のように何かを検出して何秒以内に TPC を発動し送信出力を下げるべし、というような規定はありません。AP から Power Constrain 値を通知して STA が本当に送信出力を下げるかどうかを検証するわけでもありません。何だか中途半端に思えますが、これは一体どういう訳なのでしょう?


HIPERLAN の遺産
これを紐解く鍵は、IEEE 802.11h で言及されている「ERC/DEC/(99)23」という文書にあります。これは 1990 年代に欧州で企画された HIPERLAN と呼ばれる(結果的に成功しなかった)無線ネットワーク仕様の周波数割り当てや干渉回避についての要件をまとめた文書で、正式なタイトルは

ERC Decision of 29 November 1999
on the harmonised frequency bands to be designated for the introduction of
High Performance Radio Local Area Networks (HIPERLANs)

となっています。この文書では HIPERLAN 無線システムが起こすかもしれない影響と干渉回避の方法論について述べられており、決定事項(DECIDES)として

1. HIPERLAN 無線機器は欧州の無線規制に従うこと。
2. HIPERLAN 無線機器には 5150-5350MHz, 5470-5725MHz 帯域を割り当てる。
3. 5150-5350MHz 帯での最大出力は EIRP 200mW とする。
4. 5470-5725MHz 帯での最大出力は EIRP 1W とする。
5. 3, 4, 6 項で定められた以外に、HIPERLAN 機器は (a) 少なくとも 3dB の送信出力減衰機能を持たせること (b) DFS およびチャネル選択機構を持たせ、運用周波数帯を 255MHz ないし 330MHz 幅に分散させること。
6. 5(a)(b) 項について、5150-5250MHz で稼動する HIPERLAN Type 1 機器には必須とされない。
7. HIPERLAN 市場の進展如何により、ERC は本決定の発効から2年ないしより早い時期に見直しを行う。
8. 本決定の法的強制力は 2000 年 1 月 31 日に発効すべきである。
9. 本決定の発効に伴い CEPT メンバー主管庁は ERC および ERO と連携し、本決定が各国において適切に運用されるよう活動しなければならない。

が列挙されています。(5) (6) 項については、2 章 Background のなかで更に詳しく既述されています。

It was also recognised that HIPERLAN equipment must be capable of avoiding occupied channels by employing a Dynamic Frequency Selection mechanism and ensuring a uniform spreading of the devices over all the available channels for HIPERLANs. In addition a transmitter power control process capable of ensuring a mitigation factor of at least 3 dB is also required. These constraints do not apply to the already standardised HIPERLANs Type 1 in the band 5150 - 5250 MHz.

EN 301 893 で出てきた「at least 3dB」という数字や、IEEE 802.11h で出てきた「mitigation」という言葉のルーツもこの文書にあることがわかります。また、5GHz 無線 LAN の ch.36-48 で DFS/TPC が免除されているルーツが HIPERLAN にあることも伺えます。

HIPERLAN 規格は成功しませんでしたが、HIPERLAN のために費やされた周波数帯域の割り当てや既存周波数利用者(レーダーや衛星)との折衝の結果は、同じ周波数帯を使う IEEE802.11a にそのままスライドして使われることになりました。その結果が IEEE 802.11h であり、レーダーとの干渉回避が DFS、衛星通信との干渉回避が TPC というわけです。


星に願いを
ERC/DEC/(99)23 には NGSO MSS とか FSS という聞き慣れない言葉が頻繁に登場します。まず NGSO というのは非静止軌道(Non-GeoStationary Orbit)の意味で、端的な例は GPS です。GPS 衛星は地上から見て常に動いているので、その日その時によって捕捉できる衛星信号の数が変わり、カーナビの精度が上がったり下がったりすることを御存知の方もおられるかと思います。
これに対し GSO というのは静止軌道(GeoStationary Orbit)のことです。いわゆる衛星放送は GSO の典型的な例で、静止軌道衛星は地上から見て常に(ほぼ)同じ位置を維持し続けるため、高指向性を持つパラボラアンテナ設置することで常に衛星からの電波を受信できます。
FSS は Fixed Satellite Service, MSS は Mobile Satellite Service の略で、地上局が固定か移動体かを示しています。人工衛星の運用形態は衛星軌道(GSO/NGSO)と地上局(FSS/MSS)の組み合わせによって表現され、例えばパラボラアンテナを静止衛星に向けて設置し受信する衛星放送は GSO-FSS ですし、自動車から GPS 信号を受信するカーナビは NGSO-MSS です(※註)。

(※註) 静止衛星と非静止衛星には一長一短があります。地上から常に見えている静止衛星のメリットは明らかですが、静止軌道高度は高い(約 36000Km)ため打ち上げに大型のロケットを必要とし、送受信器にも大出力のものが必要となります。また静止軌道は狭い空間に限られた資源なので、あまり多くの衛星を常駐させることができません。更には地上から衛星を見る方位角度が常に一定のため、その方角に山やビルがあれば通信できなくなってしまいます。
非静止軌道は低高度(10000Km 以下、低いものでは数百 Km)のため、一般的に静止衛星より安価に打ち上げることができ、より小さな送信電力で通信できるので衛星本体も小型で安価にできます。しかし非静止衛星は一定時間ごとに上空を通過しては地平線の向こうに隠れてしまうので、継続的なサービスを提供するためには複数の衛星を異なる軌道へ打ち上げて常に1つは上空に見えているようにしなければなりません。また、地上局がどうやって上空を移動してゆく複数の衛星と通信するかも課題です。GPS や GALILEO は全衛星が同周波数帯で拡散コードを違える CDMA、ロシアの GLONASS は衛星ごとに周波数を違える FDMA を使っており、これまた一長一短があります。


さて ERC/DEC/(99)23 においては、5150-5250MHz が「WRC-95 FSS feeder links (Earth-to-Space) for NGSO-MSS」として割り当てられているとして、HIPERLAN がこれに及ぼす影響について考察されています。Feeder links というのは衛星の制御用通信のことで、移動体サービスを提供する非静止衛星(NGSO-MSS)への制御通信を地上固定管制局(FSS)から行う際にこの周波数を使うことが考慮されていた、ということを意味します。ややこしいですね。

しかしよくわからないのは、WRC-95 帯域の 5150-5250MHz が HIPERLAN(およびその遺産を受け継いだ IEEE 802.11a)では DFS/TPC 対象外とされていることです(ERC/DEC/(99)23 DECIDES 6 項)。「衛星通信への干渉を考慮して」「少なくとも 3dB 低減の」TPC を義務付けるとしている割には、肝心の衛星通信帯域と重なる帯域で TPC が免除されているというのは奇妙な話です。ERC/DEC/(99)23 では 5091-5150MHz 帯域も「2010 年まで暫定的に」衛星に割り当てられるとなっていますが、これは無線 LAN のチャネル下限より低い周波数なので直接干渉しません。ならば一体何のための TPC なんでしょう??
この辺の事情は私にもよくわかりません。そもそも 5150-5250MHz 帯域は実際の衛星通信に使われているのでしょうか?欧州の代表的な NGSO-MSS 衛星サービスといえば欧州版 GPS であるガリレオ(Galileo)ですが、調べた限りガリレオのフィーダーリンクには 5000-5010MHz(Uplink) および 5010-5030MHz(Downlink) が使われており、無線 LAN とは周波数を分けているようです(※註)。何だかスッキリしません。
(※註)Report ITU-R M.2219 10/2011 による。なお北米 GPS も同周波数を使用。

ここから先は想像と推測になりますが、NGSO-MSS 衛星サービスと無線 LAN(HIPERLAN) が 1990 年代ほぼ同時期に企画されたとき将来の周波数衝突が憂慮され、もし悪影響が出たときの回避策として無線 LAN システムに「送信出力を少なくとも 3dB 低減できる仕組み」を設けることで無線 LAN 側と衛星側が合意し、しかる後に衛星側は無線 LAN 帯域との重複を避けて使うようになり、「少なくとも 3dB の TPC」という規定だけが盲腸のように IEEE 802.11h や EN 301 893 に残ったのではないか...という気がします。


まとめ
IEEE 802.11h で規定されている「TPC」というたった3文字の中身を調べて、1990 年代まで時間を遡り大気圏外まで飛び出す羽目になってしまいました。しかも TPC の必要性・実効性については結局何だかよくわかりません。802.11h を読んでも EN 301 893 を読んでも、遠まわしに建前ばっかり並べているような印象を受けます。
IEEE 802.11h TPC は衛星通信との干渉回避という建前になっていますが、「satellite」という単語は 802.11h 仕様書に2回だけ、EN 301 893 仕様書に至っては1回も使われておらず、DFS で「radar」という単語が何十回も使われているのと著しい対照をなしています。無線 LAN 側にとって「satellite」という単語は触れたくない黒歴史なのでしょうか?この辺の事情も私にはわかりません。HYPERLAN 企画時に衛星運用側との交渉がよほど難航して、何とか「少なくとも 3dB の送信出力低減」という言葉を引きずり出して合意に持ち込み、この件に関してはもう二度と触れたくない、というような経緯でもあったのかと思いますが、真相は 90 年代当時 HYPERLAN 制定に関わった人達しか知らないでしょう。

そんなこんなでグダグダになってしまった IEEE802.11h TPC ですが、「衛星との干渉回避」ではない TPC (動的送信出力制御、DTPC とも呼ばれる)については密集しすぎた無線 LAN システム間の干渉抑止や、バッテリ駆動機器での消費電力削減などの目的で注目を集めつつあります。今のところ IEEE 標準仕様はなく各社独自のプロトコルとして実装されており、Cisco 社の CCX TPC や Qualcomm Atheros 社の GreenTX などがあります。これらの独自 DTPC は(当たり前ですが)相互互換性がなく、AP と STA の双方に同じプロトコルが実装されている必要があり、同一機器で固められる業務ネットワークでなければ有効に使えないのが現状ではありますが。

また IEEE 802.11h 自体は DFS 仕様として(幸か不幸か)立派に現役で、特に 802.11ac では避けて通れない(ch.100~ch.140 の W56 帯を使いたい)ものになりつつあります。しかし DFS マスター(AP 側)の動作検証には高価なレーダー波発生シミュレーターが必要なうえ、検出感度が低すぎれば認証失敗、感度が高すぎれば誤検出多発でしょっちゅう停波という問題を起こすため、何度も認証機関に足を運んでは微調整を繰り返す...という時間とお金のかかる作業になり、製造側としては頭の痛い問題です。また運用側にとっても DFS に(誤検出であれ実際のレーダー検出であれ)引っ掛かると全システムが一斉に停止し1分以上再稼働しない可能性があるというのは大問題で、W53 や W56 チャネルを業務で使う上での障壁になっています。

TPC にせよ DFS にせよ、無線 LAN 機器の製造・運用側から見れば厄介者ですが、衛星やレーダーの運用側からすれば無秩序に増えてゴミ電波をばら撒く無線 LAN こそ厄介者ということになります。しかし憎み合い罵り合っていても仕方がないので双方話し合って「落とし所」を見出し規格化するわけですが、互いに建前を主張しすぎた結果が 802.11h TPC なのかもしれません。無線規格の中にはこんな奇妙というか微妙なものもありますよ、というおはなしでした。
 

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