Wireless・のおと
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無線 LAN と通信距離について(4)
ここまでのシリーズで、主に「通信距離の延伸」という観点から電磁波の伝達公式とアンテナの基礎について解説してきました。今回は「距離」や「パワー」「感度」以外の伝達阻害要因について少し触れてみたいと思います。今回のお題は「マルチパスとデッドスポット」です。
マルチパスとは
マルチパス(Multipass)というのは、電磁波が複数の経路を通って多重に伝達される現象です。「複数の経路」というのは直接波と反射波であり、反射波は更に「天井からの反射波」「床からの反射波」「壁からの反射波」のように複数の経路を取り得ます。受信側では、これらの反射波を合成した信号として受信されます。
マルチパス(Multipass)というのは、電磁波が複数の経路を通って多重に伝達される現象です。「複数の経路」というのは直接波と反射波であり、反射波は更に「天井からの反射波」「床からの反射波」「壁からの反射波」のように複数の経路を取り得ます。受信側では、これらの反射波を合成した信号として受信されます。
マルチパスが問題となるのは、各経路ごとに伝達路の長さが異なるため、受信点における信号が少しづつ時間差をもって合成された波形になってしまうことで す。既に過去の言葉となってしまったアナログTV放送で「ゴースト」が出たことを覚えておられるでしょうか。これはTV受像機への電波がマルチパスとなって時間差で届いたため、時間差をもった複数の映像が重なって表示される現象です。
無線 LAN のような高速通信において、マルチパスは通信速度向上を妨げる大きな障害です。時間あたりに乗せる情報量=シンボル密度を上げれば上げるほど、マルチパスによって前後のシンボルが重なり合い何が何だか判らなくなるという現象が発生するためです。この現象をシンボル間干渉(Inter-Symbol Interference, ISI)と呼びます。トンネル内のように大きな反響のある空間で、大声で早口にまくし立てる様子を想像して頂ければわかりやすいでしょう。一言づつ区切って言って貰わないと、ワンワン響くばかりで何を言って いるのか判らなくなってしまいます。802.11b 以前で採用されていた周波数拡散方式(DSSS)では、時間あたりのシンボル変化を疑似乱数で拡散させることでシンボル間干渉の影響を減らし、かつ自己相関演算によって原信号とマルチパス信号間の遅延を検出し、その遅延に同期して逆拡散させ合成する「レイク(Rake)受信」という巧妙な回路が用いられていました。レイク回路はあまりに巧妙なので、簡単に説明するのはちょっと難しいです。どのみち、現在の無線 LAN ではレイクは多用されていないため今回は割愛させて頂きます。
802.11a/g 以降では、複数の搬送波(キャリア)に一斉に情報を乗せて伝送するマルチ・キャリア方式の OFDM (Orthogonal Frequency-Division Multiplexing; 直交周波数分割多重変調...これについてもいずれ、まとまった解説を試みましょう)が採用されました。OFDM はその性質上レイク回路の実装が難しい反面、1キャリアあたりの時間情報密度を減らしても通信速度への影響が少ないため、有意情報(シンボル)の前後に空き時間を配置し、マルチパスでズレて届いた信号が次のシンボルに重ならないようにするガード・インターバル(Guard Interval)というマルチパス対策が採用されています。ガード・インターバルの時間は 802.11a/b/g においては 0.8 μ秒で、802.11n では高速化のため 0.4 μ秒に短縮されました。後者は「Short GI」と略される場合が多いようです。
デッドスポット
マルチパス時間差が波長の 1/2 に一致した場合は波のプラス側とマイナス側が打ち消し合ってしまい、その地点における受信強度が著しく低くなります。この現象を専門的には「マルチパス・フェーディング」と呼び、一般には「デッドスポット」として知られています。
デッドスポット現象が起きてしまうと原信号そのものが弱ってしまうため、レイク合成やガード・インターバルでも対応できません。屋外でのマルチパス現象は建造物など比較的大きく、しかも動かない反射要因に強く影響されますが、無線 LAN が多用される屋内環境では反射要因が遥かに多くて複雑で、しかもドアの開閉や人・機材の移動などによって反射経路が複雑に変化するため、それまで調子よく通信できていたものが突然調子が悪くなるような(あるいはその逆の)現象として発現します。デッドスポットによる受信強度の変化は環境に依存しますが 10~20dB にも達することがあり、しかもほんの 5~10cm 動かしただけでデッドスポットが出たり消えたりします。
デッドスポットの測定例を下図に示します。これは PC に1本の 3dBi アンテナを接続し、室内で約 10m 先に置いた 5.2GHz アクセスポイントからの信号強度を2箇所(距離 18cm)において3分づつ測定したものです。前半のポイントでは幅 10dB 以上の強度変化があり、平均受信強度 -55dB 程度ですが、後半は 18cm 動かしただけで平均受信強度 -45dB、強度変化も 10dB 未満に収まっています。この前半の状態が「デッドスポット」です。
アンテナダイバーシティ
デッドスポットに対する特効薬としては、距離を離したアンテナを複数(普通は2本)持たせておき、受信強度の強いアンテナを使うようにするという方法があります。これを通称ダイバーシティ(Diversity)、正確には「空間アンテナダイバーシティ(Spatial Antenna Diversity)」と呼びます。802.11n 以前の WiFi 機器に2本のアンテナが生えているのは、このダイバーシティに対応するためです。ある程度の距離を離してアンテナを設置したアンテナが2本ともデッドスポットに入る確率はアンテナ1本の場合にくらべて著しく低くなる(※註)ため、安定した受信性能が期待できるわけです。
(註) 例えばアンテナがデッドスポットに入る確率を一律30%とした場合、アンテナが2本ともデッドスポットに入る確率は0.3x0.3=9%にまで減少します。

さて、802.11n 以降の MIMO (Multi-In Multi-Out) 技術は高速化のために導入されたものですが、マルチパス対策としても非常に有効です。ダイバーシティでは「条件の良いアンテナ」を選択するだけですが、MIMO 受信をシングルストリームモードで使った場合、2本のアンテナからの受信信号を位相を合わせて合成することが可能となります。例えばアンテナからの信号強度がそれぞれ 0.3 と 0.6 だったとして、ダイバーシティの場合は 0.6 だけを使って 0.3 の方は捨ててしまいますが、MIMO では 0.3 と 0.6 を足して 0.9 の信号として扱うことが可能になるわけです。これを MRC(Maximum Ratio Combining; 最大比合成)と呼んでいます。
まとめ
どちらかというと長距離通信時の問題についてお届けしてきた本シリーズですが、今回は「近距離だからといって、必ずしも安定した通信ができるとは限らない」というお話でした。レイクにせよダイバーシティにせよMRCにせよ、無線LAN装置には先人の知恵を結集したマルチパス混信とデッドスポット回避のための巧妙なメカニズムが組み込まれているのですが、それでも時と場合によって急に調子が悪くなったりすることは経験された方も多いのではないかと思います。それが一体どんな「時と場合」によるのかという原因判断と適切な対策はしかし、目に見えない電波が相手なだけになかなか厄介で、ここにインテグレーターとしての経験とノウハウが問われるところです。